2011年12月21日水曜日

島州一のasamaいろは歌

文字と映像で浅間山がある。



















文字には象形文字表音文字がある。

日本語は基本的に漢字を使い、音も漢語本来の発音とはいえない日本語の発音を当てはめている。象形文字である漢字は具体的な物事を簡略化した映像にまとめた記号であり、その事物の象徴(アイコン)である。


 人間は眼に見えるものごとを伝えるために物や事の映像に名称をつけたが、名付けるためにはそれなりの意味を認識した上でなければならなかった。
 上のことからわかるように、私が見る、考える物事には必ず形と意味が共存してある。意味というものは、或る物事を感じた瞬間に所持するイメージ(象形)であって、それはその人の経験から生まれたものである。
 経験とは、過去の映像を基礎とした意味即ち言語に置き換えられる形象である。
 伝来の漢字を日本語に当てはめて出来たシステムがいろは歌であると云える。

 いろは歌は日本人の宇宙観を表している。全体としても美しい日本語であるが、それぞれの一字一句もまた、日本人の美意識が選んだ漢字から抽出した一字で、筆で書き易いようにつくり、簡略あるいは抽象化している。




 
 ところで、私が生きる象徴として選んだ浅間山は、文字通り山の固有名詞と同時に私がイメージする浅間山の映像である。

 しかし浅間山と名前を聞いた途端に、目に見えぬほどの速さで浅間山の全ての映像が脳内を駆け巡っている。その止まらないで廻るイメージを止めるのが特別な価値を持つキーワードである。その価値というのが、その人がその言葉を使った理由であり、その理由によって無数の浅間山に関する映像の中から一つが抽出される。抽出された映像とその映像を特定した文字は一つになって生れ出る。

 以上のような観点から、逆にいろは歌の一語ごとに浅間山に言葉を当てはめて、すでにつくってある浅間山のイメージ作品と一緒に新しく意味付けされた映像をつくる仕事を思い付いた。つまり、浅間山という私の風景の象形と言葉そのもののぶつかり合いから生まれたものである。
2011年12月21日
島州一



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