2018年12月28日金曜日

現代社会の構造

島 州一 2011年撮影

1969年〜1991年までの モドキレーション 43項目の原稿を、
1986年〜1991年にかけて執筆しました。
最後にその補足として書かれたのがこの原稿です。
現代の社会構造を的確に指摘していることに驚愕します。


現代社会の構造

人類は他の動物から分かれて道具を使うことにより、自分から離れた対象を手に出来る様になった。

 こん棒や石が、槍、弓矢、刃物となり、住居も自然の樹上や洞窟から進んで木材や石を削って建てられるようになり、日常の衣服や生活用具等も人類の必需品として使われる様になった。

 人類が樹上生活をしていた時にふさがっていた両手が、大地に降り立ち、敵や獲物を求めて後ろ脚で立ち上がり、その分、縦にせり上がった上半身の上にある頭をめぐらすと、四つん這いの頭よりも高く、早く、より遠く迄見渡すことが出来、その結果空いた両手に物を扱う余裕が出来てきたに違いない。

 先天的か後天的かいずれにせよ、人類は両手を用いて道具を使用することになった、と同時に言語をも使う様になったと考える。

 道具言語の獲得によって、人間は欲望を二重に対象化出来ることになった。そして、自分自身を含めた自然をも対象化することになった。

 自分の欲望を言語によって他者に伝える。

 伝えたいが為に単に伝える欲望の拡大は、人間の全ゆる欲望の拡大が道具や言語で行われるに従って、人間が生まれながらにもっている能力を刺激し、思いもかけなかった想像力を引き出し、現実=自然と思われていた時空間を分節しながら拡大して行く。

 古来より自然と思われて来た自分を取り囲む世界が、人類が創り出す世界と引き裂かれ、対置していたことに気付く。

 人類が例え宇宙空間に住もうと自然の摂理と関係なくかけ離れた存在になりつゝある

 人間の欲望の結果が、地球を都市化し、更に宇宙までも利用しようとしている。

 拡大された欲望は経済、政治、文化等の制度に統合され、商品や情報となって一瞬のうちに人類間をかけめぐり、人類は居ながらにして全世界の情報を得ることが出来、自分が自ら体験しないことまでも体験していると錯覚してしまう。

 この様な体験を擬似体験と云う。擬似体験の道具は現代では主として情報産業社会で用いられる電信による映像と、言語と、情報化された商品によって制度化され、人間の体験という実感から遠く引き離され、記号化(既製並列化)された欲望を唯選択するのみになった。

 人類が自らの欲望で用い始めた道具や言語が極度に発達すればする程、個人の意志とは離れて地球国家のスケールで制度化され、個々人が出す力の水紋の輪は、互いに重なり合って地球を覆う制度の網目となって個人を規制することになった。

  地球を覆う情報と網目は、人間の生活の中で、眼前の物事よりも、間接的に受け取る記号としての情報を現実としてとらえ易くしている。

 個人の退屈な日常に囲まれた空間は、政治や経済戦略によって拡大強化演出された記号に簡単に圧倒されてしまい、静かな中に存在する事実を直視することを忘れてしまう。

 現代の自己同一化の困難さは以上のような社会構造に関係付けられている。

 同一化が難しい時に考えるのが、関係性ということから攻めて、自分を規定することである。身の回りの全ゆる情報資料から選び取った記号を配置し、自分自身を比喩することで、近づいたとする。

 記号化された自分は、忘れていた自然と益々遠ざかることを実感する。

 極度に発達する情報産業社会は物事全てをシステム化、記号化、制度化しなければならない。全ゆる人間の欲望を細分化し、その末端に至る微細な部分を極端誇大に拡大し、あたかもその部分が、生きるための最大の目的であるかのように、繰り返し情報により個人を慰撫教化している。

 経済と政治の癒着による情報記号制度戦略によって、個人も又そのシステムの中で同じレベルの記号となっている。

 記号である個人の欲望も又記号でしかなく、各個人が出す存在の力の水紋の輪の網目である関係も又記号の構造でしかない。

 各個人の本性的ダイナミズムが創り出したはずの社会の網目が、逆に個人を記号としてスポイルする経過を考察する時、個人の存在欲望を単なる記号に置き換える情報管理システムの存在に行き当たる。

 そのような社会構造の網目の一つである自分に、芸術家として如何なる表現が可能であり、表現課題として続けなけれはならないか、ということが第一の命題である。

※モドキレーションの補足
 1991年 島 州一



1989年 芝生刺繍する島 州一




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