2019年12月11日水曜日

イメージの頭と尾(1)

最近、テキスト原稿を整理していて初期の頃の原稿(ワープロ入力した原稿)を確認し、パソコン入力した。1987年執筆の原稿である。読み返してこれはキッチリ残さなければと思った。私には内容が非常に難しく、当時理解し難く入力を後回しにしたと思われる。

2005年に武蔵野美術大学紀要に執筆した『言語の誕生』の下敷きと言っても良いと思う。
イメージの頭と尾(1)、(2)、(3)である。忍耐力のある人は読んで欲しい!

1987年頃は、70年代に行った3、4次元の行為表現を如何にして2次元の平面に変換するかという実験に苦慮していた頃です。


イメージの頭と尾(1) 

 イメージは、隣合う物事と私の間に、時空間の別なく生まれる幻想のように思われる。

 生きることは、一瞬前や後の間にある現在の私を自覚し意識することに於いて在る。隣り合った物事について考える時、目に見えるものと、それを隔てる空間のように目に見えないものがあることを知覚される。自分の意識の外にある物事をボンヤリ見過ごしてしまっても、それは私をとりまく環境には違いない。

 私の身の回りのメカニズムを、できるだけ広く、深く、全ゆる角度からみて、認識し、考え、行為するために、イメージが故意に外されている現状を考えてみたい。

 私の原風景の一つと思われる街の風景は、私の体験した気分といったものが下敷きとなって出来上がり、数十年を経てもなお生き続けている。この記憶もまた、イメージ=映像である。視覚の根源のような地帯が私の頭脳にあり、確かに過去に体験した光景は、その細胞の畑に営々と栽培されている植物のごとく存在する。そういう作物の一つに、父の持っていた世界美術全集の名画の記憶がある。ラファエロ前派やデューラーの銅版画のメランコリックな世界は、私に世界の一つの形で示してくれた。母親の唄うブラームスの子守歌や宝塚の歌劇中に唄われるパリの歌、近所に住むキリスト教の牧師の異教風な世界は、父母に育てられる過程の中に異質な世界として私に定着した。親や幼稚園、小学校の先生たちの教育のいたずらな厳しさや軍国日本の旗印としての教育は、自分自身を深く掘り下げなかった人たちに私が囲まれていたことを証明する。

 米軍機の空襲を逃れた山の中の生活は、それまでの都会とは全く別の体験を私に与え、自然の中に私を解放してくれたが、そこでなお違う政治や社会の形体をも教えられた。一朝にして軍国日本は民主日本に変わった。幼い私にまで死ぬ覚悟を与えた教育は、虚脱状態の中で放り出され、私は野放しにされた。、、、、、。

 このようにして私の過去の記憶は頭脳の畑に繰り返し栽培されてきた。限られた広さの畑かもしれないし、たまには新しい畑を外の刺激によって開拓したかもしれない。いづれにせよ、以上の過去の記憶もイメージの一つと云えよう。それは現在の私が思い出し、記述することで現在と隣り合う。


  身の回りの見たり触れたりしている物を認識する時、それらの物質感や私との距離感までも身体を基準として計算される。現実の私は与えられた肉体の形状と機能によって支えられ、その能力で身の回りの物事に関わっている。

 私と物を隔てる空間があり、過去を現在と隔てる時間がある。しかし、私は未来について認識し物語ることは出来ない。現在と過去は隣り合い、未来に向かって刻々生まれる。その様を一つの図としてイメージする。仮に未来が堅い物質の壁なら、私はそれを身体のあらゆる力を使って削り、掘り進む。もし空虚な空間であるなら、その中を飛泳して行くだろう。知覚における島の角度と虫の角度を合わせ持つこと。

 その智恵を与え教育してくれる自然は他者であると同時に自分自身であることに気が付く。私の自然は私だけが創るのでなく自然がつくる。だから自然が創る私を含めての自然のなかに、時空間を超越した私が存在出来る。

 そのような私が思う事の出来る未来のイメージは、私が自由気ままに思い描く事であると言いきってよいと思う。

 自分を現在に位置づけ出来る現実は、知覚というイメージによって支えられ、構造として思い描くことが出来る。

 哲学者が考える言葉の一つ、幾何学者の引く一本の線、医者が切り裂く一本の肉体上の痕は、それらの背後にある自然の構造をイメージせずには行為することは出来ないだろう。その行為は、彼らの過去の行為と思考の体験の積み重ねの結果、判断し、実行される。その過程の中に過去、現在、未来があり、次元を超えた未来という形が見える。それもまたイメージである。

 原始の人が暗闇を一歩進むことに戦慄し身構える時、人は何をイメージするか?また何をイメージしながら一歩を踏み出すか?リアルな肉体を描くにしても皮膚の下の血肉や骨、精神と云った目に見えないものを描くことになる。それもまた、イメージ。ー時空間に複合されたー。

 目に見えないイメージとは、物事に附帯した嬉しい、悲しい、好き、嫌いといった感覚と境目が判然としないで連なっている。私の原風景の一つである、誰もいない屋敷町のコンクリートが縦一本に延び、消失点のだいぶ前で女学校の体育館の壁に突き当たり、右に折れる道、という物の映像としてのイメージは、単なる視覚的記憶でなしに、その風景を支える気分によって成り立っている。それは、道路の家並みの裏側に住んでいるイメージの装置を私が所有していることで、私の家庭や社会の環境の記憶が構成する空間が、私に時代という普遍のイメージへと導いてくれる。以上のように私の生きた各々の時代の感覚は、限られた私の体験の記憶の断片によって構成された映像に支えられた空間感である。

 この原稿用紙を一枡埋める行為を考えると、過去は、、、(句読点を打った以前全て)であり、現在は書き埋めつつあるこの空間の枡である。と書きながら、一行程はアッという間に書いてしまう一つのセンテンスの意味が現在の私であり、未来は私の筆に埋められるのを待つ原稿用紙の枡目である。それらのイメージは、実際に私が文字という抽象の記号を目に見えるように枡中に書き付けるに従って、次々と生まれて途絶えることがない。文字を書くことで流れ出る具体に支えられたイメージの行列は、抽象である私の精神の働きの過程を表すと同時に、文字を書くという肉体の行為をも表現する物と行為の間の白昼夢である。
 
 言語を喋ることに於いても、一言相手に向かって語り出すと、言葉は言葉を生むように、自分は半分ほども自覚しないままにかなりのセンテンスを喋ってしまっている。言葉という抽象の表現記号システムが私の内部に出来上がっていて、外の刺激によって私のプログラムから抽出してくる言語が、一瞬の休みなしに飛び出してくる。それらのプログラムをオペレートするのもイメージの働きといえる。感覚を知覚というイメージに置き換え、言語の海のプログラムを差異化し、次に類似点をも考えながら言葉は未来に向かって飛び出し流れる。その行為は、精神が肉体化される荘厳な瞬間となり、顕在化される。


 戦争を興すのも、イメージの空間感を無理やり忘れようとする生理によってであろう。


 目に見えない物質性は物の表面に覆われていて、その性質は、唯眺めるだけでは、表面の状態からしか類推、判別する以外に確かめることは出来ない。仮に私の肉体がその物に関わったとしても全くの物の性質が解るわけでなく、五感で感じる感覚を統合し、分析した知覚によってイメージされた対象は、私がその時イメージ出来た部分的な一つの側面でしかないし、その行為によって対象を名付けることは出来ない。

 人間の場合を考えても、目の網膜に映る肉体上の表面とそれが動く様でしかない。その人間の性質や才能をたとえ垣間見たとしても、その人自身を私が断定し名付けることは出来ない。仮にそれを表現するためには、レトリックを用いなければならなくなる。イメージが名付け親として。

 平面上に描かれた或る映像もまた、一つの自然としてそれを観る者の判断に任されている。画面に何か具体的な像が描かれていようと抽象物であろうと関係なく、描かれたカンヴァスとしての具体は、それを観る者の判断によってイメージされ、意味内容が生まれる。

 抽象絵画のように、世界が時空間であり、一つの物や空間がそれ自体の性質を固有していることを証明するには、隣り合う物事によって関係付けられていることを表現しなければならない。画面の単一な色や形のみでは意味がない。物は世界との関係において支えられ存在し、その関係を見ることで物がイメージできる。

 感覚の世界の次にイメージの世界がある。感覚は即応的かつ反射的であり、その信号は知性あるいは理性で統合され、知覚となり、次にイメージという像として対象がとらえられる。そのイメージ自体は過去の体験されたイメージを積み重ね類推し、差異化され判別されたイメージ群の中から取り出されたイメージたちを、今のイメージに付け加えた新しい形のイメージに集約し、瞬間的に創り上げる。それで対象を認識、判断する。


 服を着るように私はイメージを着るが、脱ぎ捨てることもしないと、新しいイメージの布切れを次々にからだに纏うことは不可能だ。この場合、脱ぐ行為は忘却することが無意識化することを意味する。意味という意識の舟は無意識の海を漂う。嵐で海が荒れ狂い、意識の舟を飲み込んでしまうが、また新しい舟を私は浮かべることが出来る。空間においても私は鳥として空中に在り、無限の空間に意識としての鳥は一つの点より小さく、たとえ無意識の空間に溶かされてしまっても、新しく鳥として瞬時に生まれ、空間に波線として生を印することが出来る。

 原風景である行き止まりのような無人の道は、一つの形而上学的空間として常に私を支えてくれる。それは、その記憶の広場で何を思い描き、何を表現しようと許される孤独な空間である白いカンヴァスを常に与えられ続けられるといった私の課題なのだ。絵や音楽に接し続けてきたことでそれを創り、演奏された人間の苦悩やメランコリーは、人間の精神の宇宙を私に植え付けてくれた。それらが粗悪な印刷物や竹の針で聴くレコードからだとしても、その記号的擬似体験の蓄積の解消にもだえた青春は、それを具体化する行為の中で成人しつつある。

 虚を実に、実を虚に、といった意識と無意識の変換のイメージは、思い描くことの
<図>を舟とすれば、浮かべ支えてくれる海は<地>という関係を思いおこさせてくれる。


 情報も又、イメージ化された他者からのメッセージであり、私はその中を泳ぐ。私の身体を圧迫しかつ泳がしてくれる情報の海は、私の体温や思考さえもその圧倒的な重圧で奪おうとするが、私も必死になってその力に抵抗する。頼りになり利用できるものは、私の精神と体力のみである。


 深く海中に潜るほど、水圧は厳しく私を圧倒し、鳥になって空中を昇れば、無窮の宇宙へと放逐されてしまう。私は水や空気である情報の空間に生きる。固有の肉体から根が地下に拡張し、地上へは大木としてのび、季節が巡ってくれば花も咲き実もつける。といった循環を意識することで生きる実感をイメージし、それを表現へと変換する。

1987年3~4月 
島 州一


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