2019年12月13日金曜日

イメージの頭と尾 (3)

2005年に武蔵野美術大学紀要に執筆した『言語の誕生』の下敷きと言っても良いと思う。
イメージの頭と尾(1)、(2)、(3)である。忍耐力のある人は読んで欲しい!

文章のリクエストがあると、いつも完璧な対応をしていた。たとえばこのコメントには原稿用紙2枚ぐらいとあると、キッチリ2枚に収める、それもあっと言う間に。
国語は苦手だったと言っていた割にうまい文章家だった。句読点が少ない長いネックレス文章だったけれど、笑。



イメージの頭と尾(3) 

 イメージという言葉ほど境界が定かでない語はない。イメージは私の想像力の中に住むネックレスの様に連続し、とめどなく循環する檻の中を歩き廻るトラである。

 私が書き付けるこの言語は、文字を書く毎にフレーズやセンテンスがゾロゾロつながり出てくるが、その様がイメージ機能の本質であるかもしれぬ。記憶をたどることで引き出されてくる意識は、頭脳内に起こる火花として映像化され、その閃光が次々に他の記憶に引火し映り出す闇のスクリーンであり、現実の中の白昼夢ともいえる。


 私が絵を描く時、紙や顔料を使う身体の動く相互関係は、正しく具体であるが、描こうとして指がパステルを持ち、紙に接触しながら線を引く瞬間から、支持体と私との間に、すでに次の行為へのプログラムは予定されていることがボンヤリと感じられる。

 紙に描かれた一本の色の線は現実である、と同時に私に映るイメージの記号となる。紙とパステルが係る指が働いている時間内には具体としてある現実が、一旦それを他者として眺める時に映像となり、定かでない平面という曖昧な概念世界へと変わってしまう。

 疎外されるその危機感は私が他としての世界に拡がり、自他が一体化される快感(=自然)と拮抗する。

 暗闇に向かっての跳躍。原始の人間が一歩進む時の予感は、記憶に支えられた期待と恐のイメージであり、その集積された長老の権威が皆から尊敬された。

 予感というイメージは記憶というイメージに支えられ、現実に出会い続ける今迄のイメージは、現実と衝突する度に再構成され続けるプログラムであり、それは感情で彩られる。

 予定であるプログラム内の各々の項目は相互に関係しあっているが、厳密にいうと二者の間の距離は無限であり、あいまいな機構であって、流動的に相互の関係図は変化する。関係は相互間の紡ぎ出す繭玉であり、二者各々の視覚的な形状の説明にはならず、本質的な機構内の能力が互いの<他>を媒介として引き出され、相互の力によって構築された関係項と云える。

 精神が宙空に形創る像は正にイメージである。優れた哲学や思想が形創る世界は、各々美しい形となって私に感じられる。美術も又、視覚を前提とするメディアであるのにかかわらず、観ることによって内発される精神の形が再構築される作業に求められることが解る。

 脳内の記憶の海に浮かぶ言葉の断片が瞬時にイメージとしてプログラミングされ、水面上にネックレスのように引き出されてくる形は、一つの言葉自体は何の意味をも私に関係なく存在するのに、他との接触による波の影響で、それまでバラバラに浮遊していた語が、ある働きをいっせいに興し、互いに生物が群れるように構成される様がイメージされる。

 管理社会の情報網と同じく、私の内部のイメージも又、視覚的には実体のない火花としてその時記録しなければ瞬間的に流れ去る。構築された社会の組織も目に見えない関係の上に成り立つ人間相互の価値基準というイメージに支えられ構築されている。その関係を具体化するために書類が最優先される具体としてある。

 定かでない事と事、物と物、事と物の関係はやはりイメージによって結ばれ、具体的に関係付けられる。

 情報の系統的機構としての歴史は、イメージと行為を関係付ける記号化された物事の起承転結・因果関係を証明するイメージの組織化である。とはいえ過去の一つの行為は、イメージがその時代の論理によって支えられて実践された。その基準は様々に変わってきた人間の欲望に即している。私と他の人間との関係は、私の欲望で相手を取り込むイメージによって意識され、私の欲望のランクに位置付けられる。そのランクも欲望の変化・変質により配置変えられる。しかし、私の絶対は不変として常に背骨のように私を支えてあり、そこに欲望の枝葉や根が萌え伸びる。私が生きる社会が持つ欲望である共同幻想も又、個人が普遍たらんとするイメージの集積の傾斜と云える。


 行為表現においてイメージがイメージを呼ぶと同時に、具体的行為が畳みかけるように具体を呼び、イメージと行為の系列は平行して進み、時には交歓し合いながら様々な関係図を創りつつ成長する。その様は大きな樹の幹を外側より見た左と右の各々の輪郭線に例えられる。目に見えないイメージの実現の歴史が左側の幹の輪郭線とするならば、右のそれは行為の歴史で、二本は互いに沿ってあり、その関係構造が幹の内部としてイメージされる。樹の幹を輪切りにした断面の輪郭は円であり、外側の輪郭線にみたイメージと行為の区別はなくなり渾然一体となる。樹の芯は普遍たらんとする私であり、その中心軸に付着しながら拡がる肉壁は過去のイメージと行為の交混された歴史そのものの太さであり、左右の幹の稜線に挟まれたイメージと行為の交混体として、遠く離れて見た時にあたかも一本の線として見える繁茂する枝葉の支持軸である。その地中に拡がり伸びる根は私の欲望の形としてイメージされ、地中の栄養を吸収しながら地上の大樹を支える。上方に生え拡がる枝や葉は、太陽光を少しでもより多くと望んで根や幹の能力に応じつつ調和をとって成長している。太陽に近づこうとする幹は不変の私であるのに比べ、様々な角度に向かう枝や葉は現実に存在する強さはなく、その限られた時間を取り込もうとする手足である。


 表現行為を効果的にするレトリックも又、イメージと具体の置き換えには必要な論理として私の中に存在する操作軸である。

 枝や葉や花を支える幹は地中の根に支えられ、根は地軸に支えられる。地球は宇宙に支えられ、人間が宇宙を意識することにより存在として地球が在るべき宇宙を支え、私が在る故に樹のイメージが存在する。以上のイメージの循環が私の倫理を形成する。

 上方に伸びる枝としての定立は、変転限りない砂漠に家を建てる作業に似て、一過性として儚いものではあるが、そのイメージによって私の内部の欲イメージ望は活性化され、行為となって具体化される意義に於いて、初原のイメージの価値は想像を絶して大きいと云える。

 イメージとは使い捨てられながらたくましく成長する肥料としてイメージされる。

1987年4月 
島 州一 

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